プロローグ 静寂の中に在るもの
石の床は冷たく、膝に痛みが残っていた。それでも女は祈りを止めなかった。 祈りの先、眼前に置かれた剣と盾。
光を失ったはずの金属が、闇の中でわずかに輪郭を主張している。
剣は短く、だが異様に重い。持ち上げれば、腕だけでなく心まで引きずられる、そんな予感があった。
盾は鈍い光を宿し、胸を覆うほどの大きさがある。表面には無数の傷が刻まれている。それが誰のものか、女は考えなかった。
女は、ゆっくりと顔を上げる。
数歩、歩み寄る。
距離は、ほんのわずかだ。指先が、柄に触れた。
冷たい。
しかし、ただの冷たさではない。拒むでもなく、迎えるでもなく、“待っていた”とでも言うような感触だった。
女は思わず、手を引っ込める。
「・・・違う」
声が震えた。
守るべきものがある。この剣と盾を手にした瞬間、それを守れなくなる気がした。
「私は、戦うために生きたいんじゃない。」
盾の表面に刻まれた傷が、闇の中で歪んで見えた。まるで、次の傷を待っているかのように。 女は背を向け、歩き出す。
一歩、また一歩。そして歩みは止まり、振り返る。
それでも、剣と盾はそこにあった。置き去りにされることを、拒まない。だが、女は知っていた。
この重さは、いつか誰かの手に戻る。
だが、真の持ち手は誰であるべきなのか、女には分からなかった。
手にする事も出来ず、置き去りにもできない。ただ、静寂と時だけが、流れていくのであった。
第1章 南の島の少女
朝は、波の音から始まる。
正確には、目覚めるより先にそれは耳に届いているのだが、エルザにとってそれが「朝」だった。椰子の葉を編んだ屋根の隙間から、白い光が差し込んでいる。潮の匂い。湿った土。遠くで鳥が鳴いている。
「・・・もう、こんな時間?」
寝台から身を起こすと、足の裏に木の床の感触が伝わった。夜の間に溜まった湿気で、少し冷たい。外では、父の声がする。
「エルザ、水を頼む。」
「ん、わかった。」
返事をしながら、エルザは髪をひとつにまとめ、軽く肩を回した。体はよく動く。昨日の疲れも残っていない。
バヌアツの朝は、考え事を許さないほどに、まっすぐで、忙しい。桶を持ち上げると、ひんやりとした重さが腕に伝わった。
鍛冶場は暑い。だが、この重さだけは嫌いじゃない。赤くなった刃が、炉から引き出される。それはまだ、剣でも、刀でもない。ただの鉄だ。
だが、なぜか、エルザは一瞬、胸の奥がざわつくのを感じた。
石の床。
冷たい空気。
剣と、盾。
「・・・またか。」
脳裏によぎる幻視の残滓が、火の揺らぎに重なった。
火から目を離し、ふと我に返る。
「ちょっと、火にあてられた。涼んでくる。」
「無理するな。最近、顔色がよくない。ゆっくりしとけ。」
集落に戻ると、子どもたちが走り回っていた。
笑い声が弾ける。その中に、エルザは確かに“守るべき日常”を見ていた。
「私は、ここで生きてる」
そう、何度も自分に言い聞かせる。
それでも、胸の奥で何かが静かに、確実に、ずれていくのを感じていた。剣を持ったことはない。盾を構えたこともない。それなのに・・・。
なぜ、あんな重さを知っているのか。エルザは、空を見上げた。
雲ひとつない、南の空。穏やかな一日が、始まったばかりだった。
第2章 夢に見る、遥かなる戦
気づいたとき、エルザは立っていた。そこは、石の床だった。
冷たい。膝に残るはずの痛みはない。ただ、足裏から静かな感触だけが伝わってくる。祈りの言葉は、もう思い出せなかった。
眼前には、剣と盾があった。
見覚えがある。だが、同時に、決定的に違っている。
剣は短い。だが、その刃には赤黒い光が残っていた。血か、火か、それとも。
盾には、無数の傷。だがそれは、いつか見た“過去の痕”ではない。今まさに刻まれつつあるものだった。
空が、低い。見上げた瞬間、エルザは理解した。ここには、空と呼べるものが存在していない。あるのは、雲ではなく、重なり合う影だった。
遠くで、何かが砕ける音がした。雷ではない。鉄が、鉄を叩き折る音だ。視界の端で、光が揺れた。
人影、ではない。人よりも大きく、人よりも歪んだ輪郭。
名を持つ存在。
だが、エルザはその名が出てこない。ただ、ここで起きていることが、終わりのない争いであることだけは、分かってしまった。
「これは、夢だ。」
そう思った瞬間、足元の石が、わずかに震えた。震えは、石の床だけではなかった。空気そのものが、重く、軋んでいる。息を吸うと、喉が焼けるように痛んだ。それは、血の匂いだった。
そう理解した瞬間、エルザの胸が小さく跳ねた。遠くで、声が響く。叫びではない。怒号でもない。
言葉だ。だが、意味を結ばない。耳に届く前に砕け、雷鳴のように空に散っていく。視界が、ゆっくりと開けていく。
そのとき、地鳴りのような音が、背後から迫ってきた。振り向くより早く、巨大な影が覆いかぶさる。
人の形をしている。だが、人ではない。
筋肉の輪郭は岩のように隆起し、肌は鈍い光を帯びている。顔らしきものの中央には、燃えるような眼が二つ。
エルザは、動けなかった。恐怖ではない。それよりも、もっと根源的な感覚。これは、人が立ち向かうべき存在ではない。
影の向こうで、別の光が走った。
白い閃光。
次の瞬間、衝撃が空を裂いた。雷だ。だが、空から落ちたのではない。誰かが、振るった。稲妻を纏う槍が、巨影の肩を貫いた。岩のような肉体が砕け、怒号とも悲鳴ともつかぬ声が響く。
その光の中に、複数の影が見えた。人よりも高く、眩い存在。だが、彼らもまた、無傷ではない。鎧は割れ、光は鈍り、動きは重い。
エルザは、なぜか分かってしまった。
神々・・・。
名も、姿も、知らない。
それでも、彼らが“かつて絶対であった存在”であることだけは、理解できた。
地の底から、唸るような声が響いた。それは言葉だった。だが、祝福でも、命令でもない。宣告だ。空が、さらに低く沈み込む。
神々の光が、ひとつ、またひとつと影を掻き消していく。
その瞬間、エルザの視界の端で、剣と盾が、淡く光った。
「触れろ。」
誰かの声が、そう囁いた気がした。次の瞬間、世界が裏返る。
そこに在ったのは、かの巨大な影の群れであった。
ティターン。
名が、初めて、はっきりと浮かび上がる。圧倒的な力。神々すら踏み潰す存在。群れの中から一体の存在が現れる。
それは一本の剣を取り出し、無造作に地面に突き刺す。が、突き刺さるや否や、吸い込まれるように、地面の下に“落ちていく”。
理解しがたい光景だった。地面の下に、世界がある。その世界に落ちていった剣が到達すると、そこから闇が広がっていくのが分かった。
この瞬間、何かが変わる。はっきりとは理解できない、ただ、争いの流れが変わったように感じられた。
視界が歪む。炎。崩れ落ちる神殿。叫び声。祈り。呪詛。
それらが区別もなく、奔流となって胸を叩く。エルザは、息ができなかった。血を流す神がいた。鎧を纏った女神が、膝をついている。その手から、盾が滑り落ちた。それは、今エルザが触れている盾と、同じ形をしていた。
「・・・まだ、終わらせはしない」
声がした。怒りでも、恐怖でもない。静かで、固い決意の声。エルザは、その声を“知っている”気がした。
「人は、ただ祈るだけの存在ではない」
誰に向けた言葉か、分からない。神か、敵か、それとも。
エルザは、叫ぼうとして、息を吸った。その時、潮の匂いがした。荒い息のまま、エルザは跳ね起きる。
額に汗が滲んでいる。心臓が、耳元で鳴っていた。
夢だ。だが、胸の奥に、確かな重さが残っている。
剣を、握った感触。
盾を、構えた感覚。
そして、誰かが、「確かにそこにいた」という感覚。エルザは、両手を見つめた。震えてはいなかった。それが、なぜか一番、恐ろしかった。外では、波の音がしていた。
いつもの音だ。
椰子の葉が風に擦れ、鳥が短く鳴く。朝でも、昼でも、夕方でも変わらない、島の音。それなのに。エルザは、しばらく動けずにいた。寝台に腰を下ろしたまま、掌を見つめる。何もない。剣も、盾も、血も、傷も。エルザは、ゆっくりと拳を握る。
「夢、だよな」
口に出してみる。だが、言葉は、どこか頼りなかった。寝台の傍らに置かれた水桶に、朝の光が揺れている。その水面に映る自分の顔は、昨日と変わらない。変わらない、はずだった。
エルザは、水面から視線を外し、扉の向こうを見た。
今日も、島の一日が始まる。変わらない日常が、そこにある。
それでも
胸の奥で、何かが、静かに、形を取り始めていた。
第3章 語られなかった祈り
朝の海は、いつもと同じ色をしていた。
椰子の葉が風に揺れ、浜では子どもたちの声が遠くに弾んでいる。エルザは浜辺の岩に腰を下ろし、ぼんやりと水平線を眺めていた。
夢の余韻は、まだ胸の奥に残っている。
剣の重さ。盾を構えたときの、あの確かな感触。
「夢だ。」
そう思おうとすればするほど、現実の輪郭の方が薄れていく。
「また、難しい顔してるな」
背後から、低く落ち着いた声がした。父だった。日に焼けた肌、無骨な体躯。島の誰もが知る、刀鍛冶の男。エルザにとっては、ずっと変わらない“父”だ。
「ねえ、Papa」
エルザは振り返らずに言った。
「もし、夢が、ただの夢じゃなかったら・・・どうする?」
父は、しばらく黙っていた。波の音が、二人の間を満たす。
「どんな夢だ?」
問いは短いが、逃げ道のない声だった。エルザは、ここ数日、毎夜見ている光景を語った。低い空、砕ける鉄の音、神々と呼ぶしかない存在、そして、禍々しい剣と、神聖な剣と盾。話し終えたとき、父はゆっくりと息を吐いた。
「そうか」
それだけ言って、父は工房の方へ歩き出した。エルザは慌てて立ち上がる。
「ちょ、ちょっと! 冗談だってば。そんな真剣に・・・」
「来い」
それだけで、十分だった。
工房の奥。普段は立ち入らせない部屋。父は棚の奥から、布に包まれた長い物を二つ、取り出した。布が解かれると、それは剣と盾だった。
息を呑む。夢で見たものと、形も、佇まいも、あまりに似ていた。
「お前が夢で見た禍々しい剣はな、おそらく実在する。」
エルザは言葉を失った。
「お前の母はな・・・ギリシャの地で生まれた」
静かな声だった。
「貴族の家の娘だった。だが、あいつはその身分を捨て、祈りの場に立ち、剣を取ることを選んだ女だった。」
エルザは、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。母の顔は、ほとんど覚えていない。ただ、温もりだけが、いつも記憶に残っている。
「巫女であり、戦士でもあった。そういう女だ。その意思を引き継いだまま、ここに嫁いできた。」
父は剣を持ち上げた。
「この剣と盾は、あいつのものだ」
エルザは、思わず一歩下がった。
「待ってよ。そんな話、今まで一度も」
「語らなかった。それが、祈りだったからだ」
父はエルザを見た。
「だが、お前がその夢を見るようになった。なら・・・語らないままでいる方が、罪になる」
沈黙が落ちる。
「災いかどうかは、まだ分からん」
父は、そう言って剣を差し出した。
「だが、確かめに行く価値はある。お前自身の目でな」
「どこへ?」
「アテネだ。ヘパイストス神殿」
その名を聞いた瞬間、胸の奥で何かが静かに震えた。理由は分からない。ただ、“そこだ”と、体が理解していた。
エルザは剣と盾を受け取った。重い。だが、不思議と拒まれない。
語られなかった祈り。
母が残し、父が守り、そして今・・・。
エルザが、受け取ったもの、それを大事に胸に抱き、島の夜は更けていくのであった。
第4章 初めての懐かしい旅立ち
夜明け前の浜は、ひどく静かだった。
波はある。風もある。それでも、島はまだ、眠っている。
エルザは砂の上に立ち、東の空を見ていた。濃い藍色が、少しずつ薄まり始めている。いつもなら、この時間は炉の火を起こす頃だ。父が黙って鉄を打ち、エルザが水を運ぶ。何も言わなくても、体が勝手に動く。
だが今日は、違った。背に負った荷は軽い。着替えと、最低限の道具。それだけだ。重いのは、腰に提げた剣と、腕に通した盾だった。夢で感じた重さと、同じだった。
エルザは一度、浜を振り返る。椰子の木の影、集落の灯り。見慣れた輪郭が、まだ闇の中にある。ここで生まれ、ここで育った。剣も盾も持たずに、十分に生きてきた場所だ。
「・・・行くよ」
声に出したのは、それだけだった。足音が、背後から近づいた。
振り返ると、父が立っていた。いつもの作業着、いつもの無骨な佇まい。ただ、手には小さな布包みを持っている。
「早いな」
「うん」
それ以上、言葉はいらなかった。
父は布包みを差し出した。中には、簡素な護符と、小さな金属片が入っていた。鍛冶の端材だ。島の鉄。父が火を通したもの。
「向こうの鉄は、硬い」
「知ってるの?」
「知らん」
短く言って、父は肩をすくめた。
「だが、お前なら、分かる」
エルザは護符を受け取り、胸元にしまった。金属片は、剣の柄に結びつける。指が、自然に動いた。
「ありがとう、Papa」
照れ臭かったのか?父は後ろ向きに立ち去ろうとする。が、思い出したかのように振り返って一言放つ。
「Huperíōn」
「ん?なに?」
「ろくに勉強もさせてあげれなかったからな。歴史の、特にギリシャ神話は知らないだろうが、ティターン神族の一柱の名だ。俺もレナにちょっと聞いただけなんで、詳しくがないが、おそらくお前が夢で見た剣を人間界に落とした人物じゃないかとされているらしい。なにせ現実と神話の境界がない頃の話だが、もしかしたら手掛かりになるかもな。」
「わかった。わかんないけど、頭に入れとくよ。」
エルザは浜を歩き出す。砂の感触が、足裏に残る。波が、足首を濡らす。冷たい。だが、不思議と嫌ではなかった。
島の外へ向かう船は、すでに沖に待っている。帆は畳まれ、静かに揺れていた。初めて乗るはずなのに、どこか懐かしい。
剣が、わずかに揺れた。
盾が、腕に馴染む。
「アテネ」
口に出すと、その名は重くも軽くもなかった。ただ、そこに行くのだと、体が知っている。
ヘパイストス神殿。夢で何度も見た、あの場所へ。
エルザは船に足をかける。振り返らない。もう、十分に見た。島は、いつも通りそこにある。変わらない日常が、これからも続いていく。そして、自分だけが、そこから外れる。
それでいい。船が静かに岸を離れた。波が、砂を撫でる。初めての旅立ち。けれど、どこか懐かしい。
エルザ・グリフィスは、剣と盾を携え、祈りと剣の狭間を越えていった。
―― 完 ――