ヴァイオレット・ベルナルディ:天翔ける龍を越えて

プロローグ ― 紫の影、空を翔ける ―

 静かなフィレンツェの夜明け。霧に包まれた石畳の街路はまだ眠りの中にあり、鐘楼の鐘が遠くでひとつだけ鳴った。

一人の少女が思いがけず、朝の早い時間に目を覚ました。歳の頃はまだ十にも満たないくらいだった。暖炉の火が揺らめく寝室を抜け出し、薄いカーテンをそっと開ける。

東の空が白み始めたそのとき、雲の裂け目を、ひとすじの光が走った。最初は稲妻かと思った。けれど、それは音を立てず、形を持っていた。長く、しなやかに、空を舞う影。その背には、光を透かす薄い翼。鱗のような粒子が朝の光を反射して、紫から銀へと変わっていく。息をのむ間もなく、少女は窓辺に手を伸ばした。

その存在が実在するとは思えないのに、確かに「そこにある」と感じた。目が離せなかった。空を舞う影は、遠くの丘の向こうに滑るように翔け、やがて霧の彼方へと消えていった。

 胸の奥が震えた。恐怖ではない。なにか、ずっと遠くから呼ばれているような、懐かしい響き。 それが何なのか分からないまま、少女は両手を胸に当てた。

「いつか、あの光の意味を知りたい」

夜明けの風が、ひとすじ、彼女の頬を撫でる。その冷たさの中に、確かに「始まり」の気配があった。

 

第1章 紫の瞳、東の国へ ― 憧憬 ―

 フィレンツェの街は小春日和の朝を迎えようとしていた。外では小鳥が囀り、朝の訪れを教えている。小高い丘の上に立つ邸宅。二階の部屋の片隅にトランクが二つと竹刀が一本。トランクの上には使い込んでボロボロになった日本語の教本が乱雑に置かれている。十四歳のヴァイオレット・ベルナルディは、この日、新たな地への旅立ちに心躍っていた。

 階下から、紅茶の香りが漂ってくる。食卓では、母カテリーナがポットを手にしていた。

「ヴァイオレット、もうこれで最後の朝食ね。」

「ええ、お母さま。でも、また帰ってくるわ。少しだけ――遠くに行くだけ。」

母は微笑んだが、カップを置く音が小さく震えていた。

父アレッサンドロは新聞をたたみ、ゆっくりと口を開いた。

「君が選んだ道だ。父として誇りに思うよ。」

「ありがとう、お父さま。私、日本で“礼”を学びたいの。刀の道を。」

「礼・・・いい言葉だ。どんな国でも、それを失わなければ君は君のままだ。」

言葉少なに、父は娘の肩に手を置いた。その掌は静かに温かかった。

 その様子を、キッチンの入口でマリアが見つめていた。長年この家で仕えてきた家政婦であり、ヴァイオレットにとってもうひとりの母でもある。彼女は皺だらけの手で包みを差し出した。

「お守りよ。中にロザリオが入ってる。怖いとき、握りなさい。」

「マリア、ありがとう。・・・泣かないで。」

「泣いてなんかないよ。」

目元を拭いながら、マリアは笑った。

 出発の時が近づく。ヴァイオレットはトランクを抱え、門を出ようとしたが、ふと立ち止まった。振り返ると、三人が見送っていた。その背後で、朝の光がステンドグラスを通り、家族を虹色に染めている。

「行ってきます。」

声にこそ出ていなかったが、心の中でしっかりと唱えていた。

 

第2章 友の笑顔、影の兆し ― 絆 ―

 旅立ちの日から幾月。

春を迎えた京都の空の下、ヴァイオレットは初めて日本の土を踏んでいた。鮮やかな朱塗りの鳥居と、風に揺れる桜。そのすべてが、彼女にとって新しい世界の扉だった。

 降り立った京都駅の構内は人で溢れ、イタリア語なんてほとんど聞こえない。見慣れぬ言葉の看板、整然と並ぶ人々の列。その秩序正しい静けさに、ヴァイオレットは思わず深呼吸した。

「これが、“礼”の国。」

胸の奥で、ひとりごとのように呟いた。

 迎えの車に乗り、街の中心を抜けると、やがて見えてきたのは古い木造の建物。門の上には「真心館」と墨書きの看板が掲げられていた。剣道を中心に、礼法・居合を教える道場だと、事前に聞いていた。

 車を降りると、静寂が肌に沁みた。土の匂い、風に混じる線香の香り、そして、遠くから響く竹刀の音。心臓が小さく跳ねる。

「ここが、わたしの“始まり”の場所。」

門をくぐると、白い道着姿の青年が箒を手にしていた。彼はヴァイオレットを見るなり、驚いたように目を丸くする。

「えっ・・・あの、もしかしてヴァイオレットさん?」

「はい。今日からお世話になります。」

「うわ、本当に来たんだ!僕、三枝 透と言います。よろしく!」

透は少し照れくさそうに笑った。外国人の門下生は珍しいらしく、何度も目を瞬かせながら道場の奥へと案内する。

そこでは、道着を着た壮年の男性が黙々と素振りを続けていた。白髪混じりの髪をきっちりと結い上げたその姿に、ただ者ではない雰囲気が漂っている。

「先生、この方が・・・。」

「ふむ、来たか。」

男は竹刀を止め、ゆっくりと振り返った。鋭くも穏やかな眼差しが、ヴァイオレットをまっすぐに射抜く。

「ベルナルディ君だな。遠い国から、よく来た。」

「はい。ヴァイオレット・ベルナルディです。ご指導、よろしくお願いいたします。」

その瞬間、師の目がわずかに和らいだ。

「言葉も礼も、なかなかのものだ。だが、“剣”の道は言葉より深い。さあ、今日から“心”を磨いていこう。」

ヴァイオレットは深く一礼した。その姿を、道場の光が静かに包み込んでいた。

「一通り、道場と周辺を案内しますね。」

透がかいがいしく声をかけてきた。

道場の隅のほうでは、黙々と素振りを続けていた少女がいた。長い黒髪を束ね、鋭い眼差しでヴァイオレットを一瞥する。彼女は藤原 結。家柄も腕も、そして性格も厳格な彼女にとって、“紫眼で長身の異国の少女”の存在は、正直言って面白くなかった。

「あの、あなた、どこから来られたんですか?」

結の声は冷たく、距離を取ったものだった。

「イタリアからです。」

答えるヴァイオレットの声は静かだが、揺るがない。

透が軽く笑いながら肩をすくめた。

「すごいよね、海外から来たんだって。道場で見たことないくらい背が高いし。」

結の視線が一瞬、ヴァイオレットの紫色の瞳に吸い込まれる。

「綺麗な瞳。お人形さんみたい。」

「・・・・・。」

はっきりと珍しがって、"異質なもの"と煙たがられた訳ではなかったが、やはりあまり気分が良いものではなかった。

「もし、来て早々で差し支えなければ、お手合わせ願えないでしょうか?」

「私とですか?・・・、いえ、はい。お願いします。」

防具を借り、竹刀を握り、礼をして、結と対峙する。その瞬間、結の眉間に皺が寄る。身長の高さに加え、綺麗な芯の通った姿勢がより一層、大きく見えたからだ。その上、動きも滑らかで、正確で、鮮やかさを備えていた。水面のように静かだった動きが、烈火のような素早さに変わり、結の面を狙う。が、しかし、結はヴァイオレットの竹刀を紙一重で見切り、逆に胴を払う。

透は目を輝かせて笑った。

「すごい!一本取られたけど、本当に礼も正しいし、剣の構えも完璧だ!」

結はしばらく黙っていたが、やがて口元に小さな笑みが浮かぶ。

「本当に。なにか輝くものを感じたわ。初日からこれだとあっという間に追い越されそうね。」

ヴァイオレットも笑みを返す。

「ありがとうございます。これからもっと学びます。」

それは小さな瞬間だったが、二人の間に微かな信頼の芽が生まれた瞬間であった。

 

 数か月が過ぎた。道場生活にも慣れてきた。透とは型の稽古や組手で息を合わせ、笑いながら切磋琢磨する。結とは互いの技を高め合う競争心が芽生え、時に小さな口論もしたが、それさえ友情の一部となっていた。

「もっと背筋を伸ばして、呼吸も意識して。」

結が声をかけると、ヴァイオレットは深く息を吸い、心を静める。竹刀が交わるたびに、互いの呼吸と動きが自然に重なっていく。

 心の修行は稽古以外でも行われた。門下生全員で子ども達が集まる広場や公園の掃除をボランティアで行う事も頻繁にあった。ある日、川土手で透が足を滑らせて転倒した。ヴァイオレットと結は瞬時に駆け寄り、透を支えた。

「大丈夫?」

「う、うん、ちょっとだけ痛いけど・・・ありがとう。」

互いを支え合う当たり前の行動が、友情の土台を確かに固めていった。

またある時は禅の修行を行うこともあった。

「大事なのは、平常心、そして呼吸だ。いかなる状況に置かれても”無”になれる事、静を極めて初めて爆発的な動が生まれる。常日頃から心得るように。」

師範の言葉がヴァイオレットの心に突き刺さる。いささか、足が痺れるのは苦手であったが。

 

 気が付けば、あっという間に四年もの歳月が流れていた。十八歳となり、高校を卒業する年齢になっていたヴァイオレットは真心館でもベテランとなり、数々の大会で実績を残していた。

「私が求めていたものは、まだ・・・得られていない気がする。」

毎日は充実していた。しかし、まだ何か納得がいかない様子。

ヴァイオレットはゆっくりと息を吐く。掌には、これまで幾度となく握ってきた竹刀の感触が今も残っていた。

休暇の日に比叡山を訪れ、京都の景色を眺めながら耽っていた。

フィレンツェとは似つかわしくない風景。しかし、どこか懐かしさを感じる街並み。

あの日、母の形見として渡されたペンダントを指先でなぞる。金属の冷たさの奥に、わずかに宿るぬくもり。それは、彼女の記憶と約束の象徴だった。

小さく目を閉じ、静かに呟いた。

「私はまだ、道の途中。」

その声は風に溶け、山並みに消えていった。しかし、その瞳の奥には確かに、次の旅路を照らす“光”が宿っていた。

 

第3章 粛清の夜に咲く紫 ― 喪失 ―

 京都の蒸し暑い夏の夜、今日もヴァイオレットは道場で稽古を続けている。額から頬を通り、顎の先から滴り落ちる汗を拭うことも忘れ、素振りを続ける。二十歳の異国の女性剣術家は若かりし日よりもより一層、芯の通った姿勢を保って稽古に励んでいる。

道場をそっと覗きこむ影が見えた。ヴァイオレットは振り向くことなく、その影の存在に気づきそっと声をかける。

「ずいぶんお久しぶりですね。お元気でしたか?」

影はゆっくり明かりのある所に出てくる。

「気配は消してるつもりなのに、流石ね。」

現れた影の正体は結だった。髪をショートにして、やや大人っぽくなった親友は久しぶりに道場に訪れた。一年前に道場を辞めていたが、自己研鑽の為にちょくちょく訪れてくる、しかし徐々にその頻度も減り、実に三か月ぶりの再会であった。

「私が不在の間、手を抜いていなかったか、試させてもらうわ。」

「望むところです。」

半時程、剣を交えた二人は、お互いの成長ぶりに驚き、満足していた。

「ありがとうございました。三か月のブランクでも、衰えていないようですね。」

「あなたもね。技の切れはよくなっている、ただ・・・。」

「わかりますよね。伸び悩んでいる面も、なくはないです。」

「・・・。ね、ちょっと気晴らしも兼ねて私に付き合ってみない?」

気を遣ってくれている。断る理由もないし、確かに伸び悩んでいるのも事実だ。気晴らしというのも悪くない。

「決まりね。週末、駅で待ってる。」

 金曜日の日暮れ時、ヴァイオレットはめずらしく山を下り、京都駅で人を待っていた。歳若い、端正な面持ちのイタリア人は、外国人の多い京都駅付近でも群を抜いて目立っている。声をかけてくる男性も数多くいるが、ヴァイオレットは全く受合わず、淡々と待ち人を探す。

「とんでもない数ね。断った男性の数で道場が開けるんじゃない?」

「からかわないでください。だから里は苦手なんです。」

「遅れてごめんね。こっちよ、ついてきて」

五分程歩くとツアー用のバスが待ち構えている。急ぎ乗り込むと、待ってましたと言わんばかりにバスは出発する。定員五十名ほどの席は殆ど埋まっており、老若男女問わず様々な人が乗っている。どこか皆、生気がなく、目は虚ろな感じだった。

「人懐っこい訳じゃないけど、悪い人達じゃないよ。」

不安もあるが、まずは気晴らし優先だ。そう言い聞かせて、席に着く。

 夜の山道を走るバスの車内は、外の暗闇と対照的に薄明かりが揺れていた。窓の外には、霧にけむる杉林が続き、時折ライトに照らされて浮かぶ枝の影が不規則に揺れる。どのくらい走ったのだろうか?山道の向こう側に遠く見える京都の街明かりもだいぶ減ってきた。突然の急ブレーキでバスが揺れた。窓の外を覗き込んでもよく見えない。数名の人の気配があるが、はっきりと姿を捉えることができない。シューと音を立てて前方のドアが開く。運転手の指示に従って、乗客は素早く外に降りて行っている。

「結!」

「ここ、下りるわよ」

結の言葉に従い、二人はバスを飛び降り、霧の中に身を潜めた。視界はほとんど効かず、杉の影が不規則に揺れる。

「人?ですよね?何か特別な訓練がされてる?」

「ヴァイオレット。万が一の時を考えて先に言っておくわ。もし、私と離れ離れになって、誰かに問い詰められたとしても、私とは面識はないと主張して、たまたまあのバスに乗っていただけだと言い続けるのよ。」

「何を言って・・・うっ!」

ヴァイオレットの後頭部に衝撃が走った。ゆっくりと、前のめりに倒れ始める。顔が地面にぶつかる瞬間に目に映った人影は、銀髪の外国人、黒い戦闘服のようなものに身を纏い、その右腕には金色のダブルセイバーを握っていた。が、地面にぶつかると同時に、視界は真っ暗になり、気を失ってしまった。ただ、朦朧とした意識の中、親友が自分の名を呼んでいる声だけが・・・聞こえていた。

 目が覚めた時にはベッドに横たわっていた。殺風景なその景色はどうやら京都市内の警察病院のようだ。気づいた看護師が外に声をかけに行こうとするより前に、扉が開いて数名の刑事が部屋の中に入ってきた。

「ベルナルディさんですね。目が覚めて早々で申し訳ありません、何点かご質問をさせて頂きたいのですが。」

「はい。私も、色々とお教えいただきたいです。」

刑事の話によると、京都山間部を走るツアーバスが外国の諜報活動団体によってジャックされたらしい。その団体はEUで構成された団体で、専門のカルト集団を(異分子)として扱い、粛正している団体であり、コードネームを”Aval”と名乗っている。彼らの声明としては「古の邪剣」にまつわる違法集団の粛正に成功した。という事らしい。

アヴァル機関としては、粛正の生き残りの調査で、ヴァイオレットの身辺調査を行った結果、身の潔白が証明され、解放に至ったと思われる。その再度調査を警察が行っているとの事だった。

「ちょっと待ってください。結は、親友はどうなったのですか?」

ヴァイオレットは刑事の一人に詰め寄る。刑事もなんと言ったらよいかわかなぬような雰囲気でしぶしぶ説明する。

「藤原 結さんは現場で見つかったカルト団体のリストに名前が載ってました。加入時期は二日前でしたので、殆ど活動には関わっていないはずだったのですが・・・。」

それ以上の説明は刑事のほうからはされなかった。訳も分からない状況で、ヴァイオレットは二日後の結の葬儀に参列する羽目となった。

 焼香の白い煙がゆらゆらと揺れるたび、胸の奥を掻きむしるような痛みが広がる。参列者の数は決して多くない。だが、それが余計に現実味を帯びていた。

棺の前に立つと、どれだけ瞬きを繰り返しても、目の奥の熱は消えなかった。

どうして?あなたは、あのツアーに参加したの? どうして、私を誘ったの?・・・。なのに、最後は私を庇うように。

答えは、もう聞けない。

 葬儀が終わり、外へ出ようとしたときだった。黒いスーツ姿の女性がヴァイオレットを呼び止める。

「ベルナルディさん。こちら、藤原さんの遺族の方から預かっています。」

 手渡されたのは、小さなメモ帳。薄紫のゴムで綴じられ、端が少し湿っている。ヴァイオレットは息を呑む。震える指先でそっと表紙をめくると、たった三行。その短い走り書きが目に飛び込んできた。

 私は弱かった。

 でも、これは違う。

 ヴァイオレットだけは、巻き込まないで。

文字は乱れているのに、不思議と筆圧だけは強い。最後の力を振り絞った跡が残っていた。視界が一瞬、滲んだ。結は最後の最後で、抗っていたのだ。闇に一歩足を踏み入れてしまった自分自身と、その先に待つものに。そして、自分を、守ろうとした。喉の奥がきつく締めつけられる。冷たい夏の風が吹き抜けたが、胸の痛みは何一つ和らがなかった。ヴァイオレットはそっとメモ帳を閉じる。

「結・・・あなたは・・・間違ってなんかいない」

小さく呟く。言葉は風に消えたが、胸の奥だけは熱く燃えていた。この死は、粛清という名の“処理”では終わらせない。結が見たもの。結が悩んだこと。結が恐れ、そして最後に選んだ行動の意味。

「私は必ず、真実を見つける。」

その瞬間、ヴァイオレットの紫の瞳は、静かな怒りを帯びて揺れた。喪失を抱えた者の瞳。二度と同じ悲劇を繰り返させないという決意の色。夏の夕暮れの光が差し込む葬儀場の出口で、彼女はひとり、小さく深呼吸をした。そして、前を向いた。結の魂が迷わぬように。闇へ落ちていった友の最後の願いを、確かに拾い上げるために。

 

第4章 龍伝説の残響 ― 真実 ―

 その日は珍しく、真心館の周囲一面は雪に覆われていた。事件から一年が経ったある朝の肌寒い時刻に、ヴァイオレットは道場の奥にある古い文献庫に向かっていた。中はひんやりとしている。木の香りと紙の匂いが混ざり、長い年月の気配が静かに漂っている。棚の最上段に積まれていた埃だらけの和綴じ本を、ヴァイオレットはそっと引き抜いた。積年の埃がふわりと舞い、光の帯に銀の粒子が揺れる。表紙には薄く、名残のように文字が刻まれていた。

「熊野龍伝記」

ページをめくると、墨の濃淡だけで描かれた龍の姿が現れる。その眼は鋭くも静かで、どこか、懐かしい。

「似ている。もう、はっきりとは、憶えていないけど。」

幼い頃、霧の向こうで見た銀色の影。あの時の気配と、この絵の眼差しが重なった。胸の奥で、何かが引かれるように疼く。

「平安の頃の話と言われておる。戯言かもしれんがな。」

振り返ると、師範が静かに立っていた。

「先生は、この生き物が実在すると?」

「信じる、信じないは個人の見解じゃ。人の想いによってどうとでも取れる。ただ、熊野は“境”の地だ。呼ばれる者もいれば、拒まれる者もいる。」

「呼ばれる、とは?」

「行って、確かめてみるといい。迷いに囚われていては、この先は開けぬぞ。」

師範は雪の静けさに溶けるように背を向け、廊下の奥へ消えていった。

「・・・。」

和綴じ本を裏返す。大友頼徳、この本の作者だろうか?

「熊野へ、行こう。」

その言葉は、胸の内でとうに形になっていた決意が、ようやく息を得たものだった。

 

 山々は静かに息づき、朝の霧が谷を柔らかく包み込んでいた。紀伊半島の南端――熊野。 太古から「神々が最初に降り立った地」と語られ、旅人たちは祈りと畏れを胸に、この地へ足を踏み入れてきた。

 どこかで、せせらぎが細く笑い、山鳥の声がこだまする。ヴァイオレットは、軽く息を吐きながら足を踏み出した。京都の道場とはまったく違う。だが、この“静けさの重み”は、剣を握る者にとって、どこか懐かしい。

「ようやく、着いたのね。」

彼女の呟きに、森が応えるようにふわりと風が吹いた。次の瞬間、古びた鳥居が視界に姿を現す。朱塗りではなく、木肌が露わになった素朴な鳥居。しかし、その古さこそが、時の積み重ねを語っていた。ヴァイオレットは足を止め、息を整える。そして、胸の奥に生まれた小さなざわめきを押し殺しながら、石段を登り続けた。

 石段を登りきると、突然、視界が開けた。鬱蒼とした森の静けさが途切れ、そこだけ時間が止まったような小さな平地。苔むした岩に囲まれ、ぽつりと一つ、古びた祠が佇んでいた。ヴァイオレットは息を呑んだ。祠の奥、薄闇の向こうで・・・一本の刀が、まるで呼吸するように静かに光っていた。

「これは、日本刀?」

その刹那。

「触れるな。」

低く、地を這うような声が背後から響いた。振り返ると、いつからそこにいたのか、白い衣をまとった老人が立っていた。髭は胸まで伸び、しかしその眼光だけは鋭く、まるで山そのものが姿を取ったかのような荘厳さがそこにあった。

「この剣は、人の手で扱うものではない。選ばれし者のみが、“龍の残影”を越えたとき、初めて刀に触れることが許される。」

「龍の、残影?」

老人はゆっくりと頷き、祠へと歩み寄る。そして、静かに語り始めた。

「この地は穢れていた。悪しき龍の存在はこの地に住まう者達に災いをもたらした。しかし、人の子も何もしなかった訳ではない。真の心を持つものによって是を為し、勇の心を持つものによって邪を討った。是にはその者達の心が宿っておる。」

風がざわりと鳴り、祠の奥の刀がわずかに揺らめいた。ヴァイオレットの胸が脈打つ。

「必ずしも邪なものなのでしょうか?幼い頃、私の故郷でこの姿を見ました。あれが邪な物とは、到底思えなかったのです。」

ヴァイオレットは道場から持ち出した和綴じ本の絵を見せた。

「おぉ!これは、大友の・・・。」

老人はどこか懐かし気にその絵に魅入り、目を爛々と輝かせていた。ふと、我に返り。

「そうじゃな。彼の者は個の意思を持っている。姿形が同じでも、大陸では神聖な物とされているとも聞く。ぬしの故郷の者もあるいはそうかもしれぬ。どちらにせよ、人智の及ぶ存在ではない。ぬしに是を扱える技量はない。現在のところはな。」

「何年かかってもいい。覚悟は、できています。」

紫の瞳は一点の曇りもなく、老人をまっすぐに見ている。

「最低でも、五年は覚悟されよ。」

老人はその存在が幻であったかのように、霞の中に消えていった。

 

 二年が経過した。そこにはかつて真心館を引っ張っていた芯の通った姿勢の剣術家の姿はなかった。どこか粗削りな雰囲気を醸し出し、大きく股を開き、ぐっと腰を落とした姿勢で上段霞の構えを取る姿は熊野の山伏が憑依しているかのような荒々しさがあった。が、そこには着実に実力を備えた”剣豪”の姿があった。

一通りの日課の修行と組手を終えたヴァイオレットに老人は声をかける。

「頃合いよな。さすれば、此処へ。」

呼ばれ、地面に正座して、目をつむる。

「よくぞここまで耐え抜いた。まさかこの短期間で彼の境地に近づくとはな。今のぬしなら、耐えれるかもよ。今から訪れる世界はいわば精神世界。ぬしの描く想像が現実となり、現実が想像を導き出す。それに打ち克って、ぬしの望むものを得てみよ。」

最後まで聞く前に、景色が歪む。混沌とした空間に地面が形成される。やがて巨大な、見覚えのある体躯が、目の前に浮かび上がる。

「・・・ようやく、会えましたね。参ります!」

全く、物怖じせず、ヴァイオレットは巨大な影に向かってゆく。所詮、精神世界内の出来事だと安心しきっているのか?しかし、影の尾が繰り出す風圧に吹き飛ばされる。擦りむいた傷からは、赤い血が流れ、痛みを伴う。突然、天の声のように、老人の言葉が聞こえてくる。

「精神世界と思って油断したか?精神にダメージを受けると、それはつまり、現実世界でも影響を受ける事となる。場合によっては、死ぬことも十分あり得るぞ。」

意外ではあったが、そんな事はお構いなしであった。

「承知の上です。結!私に・・・力を!!」

ドンと衝撃が舞い上がり、ヴァイオレットの体全体が紫のオーラを纏う。大きく構え、下段から上段へ円を描くかのように振り上げる。その風圧で生成された二つの竜巻が残影を襲う。しかし、大きさに差がありすぎる。全く、効いている気配はない。ならば、と言わんばかりに次の一手、 同じように大きく構えて円を描く動き、先程と違うのは間合いを取っての風圧ではなく、懐に入ってからの直接斬撃、しかも二連撃で威力を増す。実体を持たない幽体のようなその存在は、血飛沫こそ上がらなかったが、かなりのダメージを受けている。

大きく舞い上がったその存在は、退散したのかと思いきや、くるっと翻って再びヴァイオレットの眼前に現れる。まるで人が深呼吸をするかのようにのけ反って、気をため込んでいるかの仕草をすると、次の瞬間、前のめりになって銀色の吐息(ブレス)を吐きかけてくる。その衝撃は吹雪のようであり、灼熱の炎のようでもあった。

「ぐっ!この衝撃では、(現実世界の)体がもちません!」

絶望的な力の差を感じ、心が折れそうになった瞬間、彼の存在が側面に在る何かに感づく。ブレスの勢いが弱まったので、ヴァイオレットもそちらに視線を向けてみると、なぜか現実世界にあった祠が扉を開いて鎮座している。

「天翔・・・龍切丸?なぜ?」

ヴァイオレットが気づいたと同時に、祠の中にあった紫の日本刀が意思を持っているかのように飛んできた。ヴァイオレットも今掴んでいた刀を落として、吸い込まれるかのように飛んできた刀を掴む。するとある人物の記憶が走馬灯のようにヴァイオレットの頭の中に入り込んでくる。その人物は、熊野に来てから第二の師匠となった老人の、若かりし頃の姿、対峙しているのは、今目前に見えている存在よりも更に禍々しい、まさに”邪龍”と呼べるもの。若き剣豪は、激闘の上、邪龍を討ち取った。何時間もの出来事が一瞬にして頭の中で理解した。

「あなたが・・・そうだったんですね。」

一言呟いたヴァイオレットは澄み切った表情を浮かべ、深く構えた。まるで若かりし頃の剣豪が、憑依したかのように・・・。

「これが、貴方を葬った業です。」

ゆっくりとした、スローモーションのような動きから・・・閃光が走る!

「一閃!!」

閃光が突き抜けた巨躯は、じわりと、二つに割れ、そして、霧のように、散っていった。

「はぁ。はぁ。結。貴女のおかげよ。ありがとう。」

やがて、景色は現実世界へと戻っていく。元の風景。違うのは、祠の扉が開いていることと、ヴァイオレットの手には確かに”天翔龍切丸”が握りしめられていた。

 

第5章 天翔ける龍を越えて ― 再生 ―

 京都の町並みが見えた時、胸の奥がふっと温かくなる。見慣れた屋根瓦、冬の冷たい風、どこか懐かしい木の香り。二年ぶりだが何も変わってない。

真心館に戻ってきて、広い道場の真ん中で正座し、心を整える。入り口に現れた人影からは懐かしい声が発せられる。

「戻ったようだな。得るものはあったか?」

「十分なほどに。迷いも、晴れました。」

正座している傍らには件の和綴じ本と、古めかしい、がしかし、存在感のある真剣が置いてある。

「ヴァイオレット!」

土間の奥から駆けてきたのは、透だった。

「おかえり!なんか・・・雰囲気、変わったね。」

「そう、だね。色々あったから。」

透が刀に手を伸ばしかけた瞬間、ヴァイオレットはその手をそっと押さえた。

「これは触れてはいけない。まだ、私も扱いきれていないから。」

「そっか。でも、なんか強くなった感じするよ。」

笑う透に、ヴァイオレットも微笑み返した。

 数日後、ヴァイオレットは師範の紹介で、市中に住む一人の老人を訪ねた。古くから京都にある古記録を整理し続けてきた古文書研究家だという。

「これは、珍しい本を持ってこられましたな。」

老人は和綴じ本を手に取ると、ページをめくり、龍の絵に目を留めた。その瞬間、皺が刻まれた瞳がわずかに揺らいだ。

「この筆致。まさか、いや、しかし、似ておる。」

「ご存じなのですか?」

「我が家に代々伝わる一枚の龍図に似ておるのです。祖先が“とある剣士”から聞いた話をもとに描いたものだと言われておりました。」

「剣士?」

老人は遠い記憶をたぐるように、ゆっくりと語った。

「龍を討ったという、荒唐無稽な昔語り。私は・・・本気でそれは在ったと信じておりますがな。」

ヴァイオレットの背に、静かに戦慄が走った。老人の視線は、机の脇に置いた天翔龍切丸に吸い込まれるように向けられた。

「不思議なものですな。会ったこともないのに、どこか懐かしい。我が大友家には、時折こうした“縁”めいた話が残っておりますゆえ。」

「大友・・・。そんな、まさか?」

ヴァイオレットは天翔龍切丸を老人に渡した。老人は器用に刀の柄部分を外し、茎に刻まれている銘を確認する。

「大友頼近。」

続いて和綴じ本の裏面に書かれている編纂者らしき名前を差し出して

「こちらにも大友の名前があります。大友頼徳と。」

老人は何とも言えない表情をして、奥の倉庫に籠ってしまう。出てきた際に両手に持っていた物は長く巻かれた巻物だった。

「我が一族の系譜図です。我が一族は、昔からこういう物が好きだったんでしょうな。このような綺麗な形で現在も保存されているとは。」

巻物を・・・遡る。師範や老人のいう事が正しければ、平安時代の末期だ。そんな昔の記録まで、残っているのだろうか・・・。

「ありましたぞ!大友頼近!系図を辿ると・・・頼近の兄の孫にあたる人物に頼徳の名前が。」

なんとも数奇な運命!ヴァイオレットは現代の日本語の会話はマスターしているとは言え、文語体の古語はさっぱり理解できておらず、蚯蚓が這いまわっているようにしか見えず、龍の絵だけを見ていた。が、しかし、本の記述にはしっかりと記されている。

老人の解釈によると、妻子を邪龍に殺された頼近は怒りにまかせ、龍討ちの刀の製作に没頭する。なんとか完成に至ったものの、誰もその刀を扱える者がいない。頼近は同じ村に住む侍が家族を龍に殺されたと知り、彼に刀を託す。数年の時を経て龍を討つことができたが、侍は自我が崩壊し、山に籠るようになる。そんな状態でも、大友の家族との親交は保ち、よく幼い頃の頼徳に龍討ちの武勇伝を聞かせていたという。その事をきっかけに、頼徳は成人した後、「熊野龍伝記」を編纂したという流れらしい。

「師匠・・・。」

ヴァイオレットのつぶやきを気にせず、老人はただ、龍の絵と刀の両方を前にして、深く感慨に沈んでいるようだった。

 

 翌日、再び道場にて、師範と向き合う。

「で、これからどうするつもりじゃ?」

ヴァイオレットは静かに息を吸い、答えた。

「ヨーロッパに行きます。まだ何も真実が明らかにされていません。フィレンツェの家族のことも気になりますし。」

師範は目を閉じ、ゆっくりと頷いた。

「止めはせん。お前の歩んできた十年は、決して無駄ではない。道は、もうお前自身の力で開ける。」

その言葉が、胸を温かく震わせた。

 一週間後、小さく雪が舞う中、真心館の門が開いた。中から出てきた紫眼で長身の剣術家はトランクと日本刀を携えて、凛とした表情で未来を見ている。彼女はひとつ息を吸い込み、白い息を吐きながら歩き出した。十年前にそうしたように、ふと立ち止まって、振り返り、そして言葉を発する。

「行って参ります。」

喜びも、悲しみも、苦い経験も、辛い修行も、十年間の思いの詰まったこの場を離れ、すべての真実を確かめるために、迷うことなく歩き出す。

 

ヴァイオレット・ベルナルディ。二十四歳。新たな旅立ちに向けて

 

      ―― 完 ――